閑話2 : 絶滅危惧種(?)生理学

「生理学」の衰退が叫ばれて久しい.もとより生理学に対する愛着はあり,その衰退は寂しいものである.しかし,学問は一人でやるものではない.無人島で一人でやっても面白みは半減するだろう.自分のやっていることに興味をもってくれる人間(たとえ論敵・ライバルであっても,いやだからこそ)がたくさんいて,丁々発止できることが学問の(少なくとも自然科学の)醍醐味の一つである.すると同好の士は多いにこしたことはない.だからといって,組織の存続に頭をひねるというのは本末転倒のような気がする.

学問に携わる個人々々は何かワクワクすること(あるいは目に見える成果)はないかとうろついて,一番面白そうなことをやるマシンに過ぎない.しかしそれまでの個人史を引きずっているので,うろつける範囲は今自分がいる場所の周りに自ずと限られる.それがどれくらい広いかがその人間の力量であろうか.若い人たちは引きずる歴史がない分自由度が大きく,結局(たとえ目先のものであったとしても)一番面白そうな領域へ引きつけられる.これを外から眺めれば,水が低きに流れていく様子にたとえられるかもしれない.そのような時に流れに棹さして違う方向へ行くのは容易ではない.ましてや流れそのものの向きを変えることは流れの中にいるものには原理的に無理であろう.

もう一つの例えとして,学問の雑誌に政治の話はそぐわぬことは承知で,社民党について述べる.客観的にみれば,社民党(かっての社会党)の歴史的役割はすでに終わっている.いま必要なことは党を解散して(アポトーシス?),中の人材のエネルギーを解き放つことである.しかし内部にいるものには,組織自体の存続が何にもまして大問題に思えてくるのであろう.その結果が断末魔ともいえる党,そして(個人的には好きな)党首の行動である.(平成15年9月現在)

生理学会が同じだとは言わぬ.しかし,もし「生理学」なる学問領域がこれからも本当に必要とされるのであれば,組織存続の努力などせずとも,自ずと命を永らえるであろう.今我々のなすべきことはいたずらに規則や制度を変えることではなく,構成員としての原点,つまり面白く,ワクワクするネタを探してうろつくことである.もし誰かが大きなbreak throughを捕まえ,しかもそれが「生理学」の範疇にあるなら,若い人たちは再び生理学に目を向けそれは新しい流れとなってゆくであろう.あるいはそのbreak throughが生理学の枠を越えていて,生理学滅亡を加速することになってしまうかもしれない.しかしそれはそれで結構.残るもの達は絶滅種最後の個体として生理学を全うしようではないか.

生理学の衰退は分子生物学などの研究領域の勃興と対をなして語られる.しかし分子生物学は生理学ではないのだろうか.もし生理学が「生きることの理(ことわり)」を考える学問であるならば,生理学は分子生物学の対極に語られるものではなく,それを包含するもののはずである.それでは生理学の枠組みとは何であろうか?私個人の定義では「生きる上で何の役に立つ?」(大阪弁ならば「なんでやろ?」)という問を発すること,つまり機能的な意味を考えることが「生理学」である.目的論的だとの批判は承知している.しかし,現存する生命体は数億年の時間のフィルターをくぐり抜けてきたものである.生命現象の99.99…%は生存に役立っているはずである.そうであるなら,研究をするときに「何の役に立っているのだろう?」という発想からスタートしても,外れることはまずなかろう.一度この問題設定ができたなら,それを攻撃する方法が,分子論だろが行動覿察だろうがかまわない.目的論的に考えるということは悪く言えば「屁理屈」,よく言えば「仮説」を提示するということである.“Why”をいつも考えるのが生理学者である.それは決して易しいことではない.くれぐれも“How”を明らかにすることだけで一生を終えることがないようにしたい.

生理学はこのまま衰退してゆくのか?あるいはかつての大英帝国の勢いはなくとも,小さいながらも存在感を示している現在のイギリスのように,生理学もあるところで新しい平衡状態に達するのか?

さて,こんな屁理屈をこね回している場合ではない.何かワクワクすることはなかろうか…….

(2003年65巻12号 Vision掲載)